釧路アイスホッケーの歴史

■連載第1回(H21.1.9)同窓会誕生 素人集団 一から学ぶ

 アイスホッケーが釧路に入ってきたのは1932年(昭和7年)ごろと言われていますが、38年になって王子製紙(当時)釧路工場にアイスホッケー同好会が生まれました。苫小牧工場から釧路工場へ助勤に来ていた小林吾妻さんという方が「苫小牧ではアイスホッケーが盛んだから、釧路でもやろう」と声を掛けたのがきっかけだったそうです。
 ただこの時点では、スティック持ってわいわいとゲームを楽しむといった程度のレベルでした。この後、戦時色が濃くなっていったこともあり、同好会は自然消滅。釧路にアイスホッケーが根付くのは、45年(昭和20年)の終戦を待たなければなりませんでした。
 戦争が終わり、世の中が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた47年(昭和22年)、戦地から生きて帰った者や若い社員が集まり、釧路工場にアイスホッケー同好会が再結成されました。
 王子製紙は財閥解体で49年8月、苫小牧製紙(現在の王子製紙)、本州製紙(同)と十条製紙(現在の日本製紙)に三分割され、釧路工場は十条製紙釧路工場として再出発しました。この年の暮れから同好会も、晴れてアイスホッケー部に昇格しました。
 写真は草創期のメンバーです。山本末治、井出三郎、平山茂、菊池正之、わたしの兄の菅原猛ら12人。右から4番目がわたしです。現在の日本製紙クレインズに連なる、実業団の名門「十条製紙」の第一歩でした。
 とはいえ、まだまだ歩みを始めたばかりの素人集団。王子製紙苫小牧工場に指導者の派遣を要請するなど、スケーティングやルール、戦術などを一から学ぶ日々でした。

■連載第2回(H21.1.16)リンク造り 格言生んだ過酷な寒さ

 ようやく発足したアイスホッケー部ですが、苦労したのはリンクです。今でこそ屋内リンクが当たり前ですが、戦後間もない釧路に、もちろんそんな便利なものはありません。たった一つのリンクは、市内を流れる仁々志別川に自分たちで造るリンクでした。
 作業は10月中旬、川に入って、胸まで水につかりながら、かまで水草を刈り取ることから始まります。枯れ草が水面に出ていると氷に穴が空いてしまうからです。
 しかし晩秋のこと。水の冷たさは格別で、5分と水につかっていられるものではありません。舟に上がってはまた川に入るの繰り返しで、当時を知るメンバーの間では「あのつらさは一生忘れられない」と、今も語りぐさになっています。
 当時の釧路は寒さが厳しく、12月半ばには川面に2aくらいの氷が張りました。そのころから、今度はフェンス造りが始まりました。
 ツルハシで直径10aほどの棒を立てて凍らせます。そうして輪郭ができたところで、夜中にガチャポン(消防用の手押しポンプ)を使って、氷が適当な厚さになるまで毎晩水をまくわけです。
 これもつらい作業で、全身ビショビショになり、手足は凍り付くように冷え切って、鼻水は流れ放題といった具合。自然と「リンクを造らざるものは滑るべからず」という格言が生まれ、チームの合言葉になりました。
 こうしてできたのが「川リンク」で、平地に水をまいて造る「陸リンク」も太平洋炭礦などにありました。釧路に屋内リンクができるのは、67年(昭和42年)の釧路スポーツセンターオープンまで待たなければなりませんでした。

■連載第3回(H21.1.23)全道選手権初出場 敗戦経験、実力差知る

 1949年(昭和24年)に発足した十条製紙アイスホッケー部ですが、翌50年1月、早速、全道大会への初出場が許されました。苫小牧の王子リンクで開かれた第21回全道選手権兼第5回国体道予選。1回戦で日鉄室蘭に1−5で敗れましたが、十条チームにとって記念すべき全道デビューでした。
 それまで十条製紙は、太平洋炭鉱や釧湖陵高、釧路工業高など一般、学生を問わず対戦し、連戦連勝でした。しかし初めて経験した全道の舞台は見るもの聞くものが目新しく、他チームとの実力の違いは歴然でした。
 51年(昭和26年)1月の全道選手権で、初めて当時の強豪、王子、岩倉組と対戦する機会がやってきました。しかしスコアは、王子戦が0−36、岩倉戦は1−37と、文字通りの惨敗。「正味60分(の試合)で36点。GKを除くプレーヤーは汗する暇もなく、一人汗だくであったのは、今は亡きGK青木だけだった」と、当時の選手による回想が残っています。
 まだまだ弱小だった草創期の十条製紙を鍛えてくれたのが、実は王子製紙苫小牧工場が派遣してくれた一流選手たちです。
 50年の西浦清輝さん(王子製紙監督)から始まり、51年に戸巻運吉さん(DFで王子監督)と渡辺英夫さん(FW)、52年に安部和夫さん(FW)と畠山博吉さん(GK)らが釧路を次々と訪れ、十条の指導に当たってくれました。
 一流のコーチの指導に奮起した選手達たちが猛練習を重ねた結果、実力も徐々に向上。このころ、全道選手権も実力に応じてA、B両級に分かれていましたが、54年(昭和29年)から56年にかけてB級で三連覇。待望のA級入りを果たしました。王子、岩倉といった強豪への本格的な挑戦が始まったのです。

■連載第4回(H21.1.30)手製のユニフォーム 鉢巻き姿 ズボンに補強

 写真は、チームが発足してしばらくたったころのユニホームです。当時は今のように立派なものではなく、手製の代物です。
 当時のスタイルは、頭には鉢巻き、プロテクターはぺらぺらの薄いズック製、パンツは普通のズボンを短く切って綿と竹で補強したショートパンツといったいでたち。
 レガートも2枚のズックの間に竹を6〜7本入れたもので、ひざを保護する部分はほとんどありませんでした。これにユニホームとストッキングを着用するのですが、ストッキングはひざ上5aまでしかありません。写真をよく見れば分かりますが、パンツとストッキングの間が20aほど空いています。
 素肌が露出してしまうこの部分は、厳寒期の練習を重ねるうちに雪焼けというか「氷焼け」をして、足の裏の皮みたいに硬く、どす黒くなってしまいました。
 戦後間もない物資不足の時代、ユニホーム作りも一苦労です。幸い工場のお得意さんの会社が、当時は入手が困難な純毛、純白の毛糸を寄贈してくれました。デザインの得意なメンバーが、白黒しま模様のユニホームを図案化。製紙工場なので染料はあります。毛糸の半分を黒く染め、白、黒の毛糸を各家庭で図案通りに編み、ユニホームとストッキングに仕立てました。
 わたしが入社する前の戦中はもっとたいへんでした。兄の菅原猛(故人)に聞いた話ですが、終戦時、工場に残っていた用具は、ゴールキーパーのレガート1組にキーパーのスティック1本、プレーヤーのスティック5〜6本だけ。空襲の時は真っ先に防空壕に運び込んだ“宝物”だったそうです。わずかに残ったこれらの用具が、敗戦の絶望的な時代でも、アイスホッケーを志す青年たちの心の支えになりました。

■連載第5回(H21.2.6)王子戦初勝利 激戦制し全員男泣き

 1956年度(昭和31年度)のシーズンから全道選手権A級に昇格した十条チームでしたが、王子、岩倉との実力差は歴然で、連敗を重ねました。56年度は王子戦が3−8で岩倉戦は2−11。57年度は王子戦3−8で岩倉戦は1−13といった具合でした。
 初めて王子に勝った試合のことは、今でも忘れません。61年(昭和36年)1月、札幌で開かれた第1回NHK杯大会。3、4位決定戦で十条は王子と対戦しました。
 この日は試合開始直後から激戦となり、1点を勝ち越すと「時計よ早く回れ」、リードを許すと「ホイッスルよ鳴らないでくれ」と、祈るような気持ち。運命のホイッスルが鳴った時、得点板には「十条7−6王子」と記されていました。
 全員男泣きに泣きました。この時の王子の監督は十条をコーチしてくれた西浦清輝さん。試合直後、恒例のあいさつで相手ベンチ前に行ったら、西浦さんから「章。ちょっと来い」と声がかかりました。西浦さんはわたしの頭をなでるような、たたくようなしぐさをして「よくやった」と、ほめてくれました。胸が熱くなりました。
 1989年の十条製紙アイスホッケー部40年誌に、西浦さんの寄稿が残っています。
 「(昭和25年にコーチで訪れた際は)全員スピード選手のような滑りで、左右のカッティングもできない。(略)それでも充実強化を繰り返し、10年後のNHK杯で王子に勝った。涙を流して喜んでいる君らに祝福の握手を送った監督であった小生の複雑な気持ち。(略)歴史や伝統はそんなに簡単にできるものでない。苦労の連続、堪え忍び、そして涙を流し、汗を流してようやく成し遂げられるものです」
 西浦さんは2002年に死去されました。王子の監督にして、十条の大恩人です。

■連載第6回(H21.2.13)日本リーグ発足 「実力不足」国体で返上へ

 1966年(昭和41年)、今のアジアリーグにもつながる、日本アイスホッケーリーグが発足しました。プロ野球をはじめとする全国規模のスポーツリーグの中で、冬のスポーツとしては初めてのリーグ設立でした。
 発足時のチームは、王子製紙、岩倉組、西武鉄道、古河電工、福徳相互銀行の5チーム。十条製紙は入っていませんでした。
 理由ははっきり分かりませんが、王子などになかなか歯が立たない状態で、リーグ側から「実力不足」と見られたのかもしれません。ずいぶん悔しい思いをしましたが、十条のリーグ加盟は、74年(昭和49年)まで待たなければなりませんでした。
 日本リーグについて少し説明しておきます。最初は5チーム制で始まりましたが、72年に福徳相互が廃部になりました。この時は西武鉄道を西武鉄道と国土計画(コクド)に分割して、チーム数を維持。十条が加盟した後は6チーム体制になりました。
 79年には岩倉組も廃部になりましたが、雪印がチームをそのまま引き継ぎました。
 その後しばらく順調に推移しましたが、99年に古河電工が廃部(チームは日光アイスバックスに)、2001年には雪印も廃部となり、チームを引き継いだ札幌ポラリスも資金難などから1年で休部に追い込まれました。03年には西武鉄道の廃部でコクドに一本化され、4チームまで減ってしまいました。
 こうした背景から、韓国のチームも加わって03年11月から始まったのがアジアリーグです。十条から代わった日本製紙クレインズの活躍はご存じの通りです。
 話は戻ります。66年の日本リーグ設立で、リーグ加盟チームは国体への出場権がなくなりました。十条にとっては国体で好成績をおさめ、リーグ加盟を目指すことが大きな目標になったのです。

■連載第7回(H21.2.20)国体に初出場 優勝を支えた屋内施設

 日本アイスホッケーリーグの発足で、王子や岩倉組に国体出場権がなくなったことは前回記した通りです。日本リーグに加盟できなかった十条にとっては、国体での活躍が大きな目標になりました。
 1968年(昭和43年)1月、釧路で全道選手権と国体道予選が開かれました。全道選手権は王子に2−8、岩倉組に0−10と歯が立ちませんでしたが、国体予選は決勝で、王子OB主体の王友クラブに8−5で勝利。初の道代表の座を獲得したのです。
 同年1月25日から帯広で開かれた国体は、十条の15人に王友クラブから5人を補強して出場。準々決勝で埼玉、準決勝は岩倉組のOBをそろえた青森を下し、古河電工OB主体の栃木との決勝も6−4で快勝。見事に優勝しました。
 十条の活躍ぶりに、バス1台を借り切って釧路から決勝戦に駆けつけた応援団も大喜び。帯広国体では、北海道選手団の旗手を十条の新岡耕輔(DF)が務めたのも印象深い思い出です。
 その後の国体でも大山剛(DF)、榛沢道博(DF)、成田貢(FW)が堂々と旗手を務めました。
 このころの十条の充実の背景に、67年の釧路スポーツセンターのオープンがあったことを忘れてはなりません。釧路工場の蒸気を利用して、夏は温水プール、冬はスケートリンクとして活用する待望の屋内施設です。
 屋内リンクができるまで、チームは仁々志別川の結氷を待つのももどかしく、塘路湖や雌阿寒岳のふもとまで、氷を求めて長距離の移動を強いられていました。釧路スポーツセンターの開業は、十条チームが安定した練習場所を確保できたことに加え、釧路のアイスホッケーの拡大にも大きな役割を果たしたと思います。

■連載第8回(H21.2.27)日本リーグ加盟へ 外部から監督 悲願へ前進

 1968年(昭和43年)、初めて出場した帯広国体での優勝は、十条チームにとって大きな自信になりました。
 国体直後、苫小牧で開かれた第1回全国選抜社会人アイスホッケー大会は、準決勝で岩倉組クラブ、決勝では王子OBが主体の王友クラブと対戦。若い十条はスタミナと脚力で両チームを圧倒し、優勝しました。
 翌69年の国体代表決定戦も岩倉クラブと対戦し、11−6で快勝。二度目の北海道代表となり、山梨国体に出場しました。国体でも岐阜県、愛知県を大差で下して決勝に進出。東京都が相手の決勝は悪天候でリンク状況が悪く、両チーム優勝という結果でした。
 国体への出場を通じて、十条は着実に力をつけていきました。この後、70年の長野、71年の八戸(青森県)、72年の日光(栃木県)で優勝。73年の盛岡(岩手県)国体こそ青森に1−4で敗れたものの、国体4連勝を果たしたのです。
 日本リーグ加盟チームとの対戦の機会も設けました。70年には西武鉄道、福徳相互銀行を釧路に招いて対戦。全国実業団選抜大会や全日本選手権にも積極的に出場しました。
 73年度のシーズンを迎えるに当たり、チームは首脳陣の一新を図りました。新監督に、釧路工業高校出身で岩倉組で活躍し、世界選手権やグルノーブル冬季五輪の代表も務めた佐藤道博さんを迎えたのです。釧路出身とはいえ、外部から監督を迎えるのは創部初のことでした。
 このシーズンは国体での優勝が日本リーグ加盟の「絶対条件」といわれていました。そして迎えた74年1月の札幌国体は、静岡、宮城、栃木を破り、順当に決勝進出。決勝の相手は前年苦杯を喫した青森でしたが、6−4で快勝。悲願の日本リーグ加盟に向け、大きく前進したのです。

■連載第9回(H21.3.6)まず一勝 古豪・古河に接戦の初勝利

 1974年(昭和49年)5月24日、東京で日本アイスホッケーリーグの理事会が開かれました。この席で、かねてからの懸案だった十条製紙の日本リーグ加盟が正式に承認されたのです。
 十条チームがいよいよ日本のトップチームの一つとして認められることになりました。47年(昭和22年)の同好会発足から二十七年。会社や社員、家族、そして釧路のアイスホッケーファンの温かい応援があったからこそと、喜びと感謝に包まれました。
 日本リーグデビュー戦は74年11月2日、苫小牧での王子戦。この試合で十条チームは、日本リーグの厳しさを思い知らされます。デビュー戦の緊張もあって1−13という大差で完敗。続く岩倉戦は第2ピリオドまで2−2と互角に戦ったものの、結果は4−8で敗れました。
 当時のことを、監督としてチームの指揮をとっていた佐藤道博さんが、十条製紙アイスホッケー部四十年誌(1989年)に寄稿しています。
 「私の監督時代は負けました。本当にいやになるほど負けました。でも自分に言い聞かせました。勝負の世界はいつまでも同じではない。いつかこの苦労が実ることを」
 王子、岩倉組、西武、国土と連敗した十条にとって「まず1勝」が合言葉になりました。そして一次リーグ最終戦の古河電工戦。25年(大正14年)創部という古豪相手に十条は健闘し、6−5で初勝利を飾ったのです。
 二次リーグでは勝利を挙げることができず、王子など強豪チームとの実力差は歴然でした。でも、日本リーグ初年度は古河を上回って5位を確保。平均年齢22歳という若いチームが「ヤング十条」と呼ばれるようになったのも、このころのことでした。

■連載第10回(H21.3.13)ホームリンク 発足当初からの夢かなう

 1975年度(昭和50年度)、チームは法政大出身の木谷克久(GK)など若手選手を補強。「ヤング十条」「走る十条」というチームカラーを一層濃くして、二年目の日本リーグに臨みました。
 この年、特筆すべきことがありました。十条チームが長年の夢としていた専用室内リンク「十条アイススケートセンター」が完成したことです。
 これまでも何度か指摘しましたが、チームの悩みはホームリンクを持たないことでした。チーム発足当時からリンク探しには苦労し、仁々志別川や遠くは塘路湖、阿寒まで移動を強いられていました。67年(昭和42年)には市営の釧路スポーツセンターが開業しましたが、アイスホッケーの公式戦にはやや狭いのが難点で、まさに待望のホームリンクの誕生でした。
 75年11月8日、市民ら約二千人が見守る中、オープン式典と日本リーグの一環として国土を招いての記念試合が行われました。ホームリンク初試合となった国土戦は3−5で惜敗したものの、12月2日岩倉組を迎えた試合では6−3で勝利する大健闘を見せました。
 この年の日本リーグは、岩倉組から挙げた1勝のほか古河から2勝を挙げ、3勝12敗という成績で前年に続いて5位に入りました。ガッツあふれる好プレーを連発した木谷が、リーグの最優秀新人賞に輝いたことも、忘れられない思い出です。
 ただ、佐藤監督(当時)が「私の監督時代は負けました。本当にいやになるほど負けました」と述懐した通り、王子、西武、国土、岩倉組の四強との力の差はなかなか縮まりません。せっかくのホームリンクで負け続ける姿をファンに見せるのが、つらい時代でもありました。

■連載第11回(H21.3.27)戦力強化 初の外国人選手補強

 日本製紙クレインズが二季ぶり3回目のアジアリーグ優勝を果たしました。OBの一人としても心からお祝いを申し上げます。
 さて日本リーグに加盟した1974年度(昭和49年度)、75年度と古河電工を上回って5位だった十条チームでしたが、76年度から78年度までは三年連続で最下位に沈んでしまいました。
 このころ、上位チームによる優勝争いはますます激しくなっていました。王子が75年にソ連(当時)から一流選手を補強して戦力アップを図ったのを機に、西武、国土はカナダから選手を補強するなど、日本リーグを舞台にソ連式、カナダ式のアイスホッケーが展開されるようになっていました。
 岩倉組や古河も即戦力の外国人選手を入れました。地元選手主体で構成する十条は、ますます苦戦を強いられるようになりました。
 64年度(昭和39年度)まで監督を務めた後、しばらくチームから離れて仕事に専念していたわたしでしたが、77年度、総監督という立場でチームに復帰しました。
 リーグ加盟以来最低の成績だった78年度のシーズンを終え、わたしは「選手一人一人の認識こそ一番の問題だ」とする回想記を記しました。5位を死守した古河と最下位に甘んじた十条を比較し、「訓練では力は十分養成されているはずなのに、その力を発揮するための行動は氷上の一人一人の支配下にある」などと、選手個々に猛省を促しました。
 合わせてカナダからグレッグ・バディ(DF)、スコット・マクロード(FW)と、二人の外国人選手を初めて補強。六年間務めた佐藤道博監督に代わって東弘幸監督がチームの指揮をとることになり、雪辱を期して、79年度のシーズンを迎えたのです。

■連載第12回(H21.4.3)十条旋風 「万年5位」の汚名返上

 日本リーグ加盟から6年目の1979年度(昭和54年度)、十条は東弘幸・新監督のもと、並々ならぬ決意でシーズンにのぞみました。岩倉組が廃部となり、雪印が誕生するなど、日本リーグも曲がり角に差しかかった年でした。
 十条は、開幕戦こそ王子に1−14と大敗したものの、雪印、古河を下すなど2勝2敗1分で一次リーグを終え、二次リーグを迎えました。
 11月8日、全勝街道を突っ走る王子を釧路に迎えました。1−2で迎えた第3ピリオド。マクロードからのパスを受けた澤崎が同点ゴールを挙げ、さらに小松が単独で持ち込んで逆転。ゴールを守る木谷も再三の好守を見せ、3−2で王子に勝ったのです。
 日本リーグに加盟して以来16連敗していた王子に、悲願の初勝利です。翌日の北海道新聞は「ついに勝った 目真っ赤の十条選手」と大きな見出しで、“涙の初勝利”を報じました。
 このシーズンは6勝6敗3分で、初めて王子、国土、西武の三強に次ぐ4位を確保。我慢強く応援してくれたファンに、ようやく“十条旋風”を見せることができたのです。
 前年まで三年連続最下位からの躍進は、チーム全体が目標に向かって練習を重ねた結果でした。個人成績でも、マクロードがアシスト王、新人の重野賢司が最優秀新人賞に輝きました。
 十条は翌80年度も4位に入り、「万年5位」の汚名を返上しました。81年度は再び5位に甘んじたものの、24連敗していた国土から初勝利。王子、国土、西武との力の差はまだありましたが、少しずつ差が縮まってきた実感もありました。三強の一角を崩してAクラスに入ることが、現実の目標になっていきました。

■連載第13回(H21.4.10)Aクラス 創部40年目の快進撃

> “十条旋風”を見せた1979年度、80年度の後、チームは再び低迷を余儀なくされました。健闘するものの上位チームの壁は厚く、かろうじて古河を上回る5位に入るのが精いっぱいというシーズンが続きました。
 大きな転機になったのは88年度、ソ連からコーチを迎えたことです。ビクトル・クージキンとセルゲイ・シェペレフの二人で、いずれもナショナルチーム代表も務めたことのある名選手たち。就任初年度こそチームは5位でしたが、翌年度から十条の快進撃が始まりました。
 東弘幸新監督の下で迎えた89年度のシーズン。合言葉は、クージキンコーチの持論でもあった「攻撃的ホッケー」です。この年の夏には、両コーチの故郷のモスクワで初の海外合宿も行いました。スピードと速いテンポを兼ね備えた絶えず攻めるホッケーを目指して、チームの強化を図りました。
 9月30日に開幕した第24回日本リーグの前半戦、十条は勝率5割をキープする上々のスタートでした。勢いに乗るチームは後半も快進撃。中でも11月20日の西武戦は、3−3で迎えた第3ピリオドの残り1秒で、澤崎晋司のシュートを相手GKがはじき、重野賢司が押し込んで決勝点。しびれるような勝利でした。
 そして12月8日の雪印戦。2−2で迎えた代3ピリオドに重野賢司が勝ち越し、角橋範若がだめ押しのゴールを決め、4−2で勝利。最終戦を待たず、王子、国土に次ぐ3位を決めました。
 くしくもこの年は創部40年。リーグ加盟から16年目にして初のAクラス入りでした。澤崎、重野らベテランと、この年の最優秀新人賞に選ばれた竹内元章ら若手がかみ合った“強い十条”は、翌シーズンも3位を確保したのです。

■連載第14回(最終回)(H21.4.17)クレインズ アジアリーグ3回も優勝

 1993年4月、十条製紙と山陽国策パルプが合併して日本製紙が誕生しました。合併に先立って十条製紙釧路工場は、新チームの名称を一般から公募。英語でツルを意味する「クレインズ」に決まりました。
 名称の募集には一般から2,269件の応募があり、そのうち約50件ほどが「クレインズ」を候補に挙げていたそうです。
 「日本製紙クレインズ」。十条製紙で長く働き、アイスホッケー部に集ったわたしのようなOBには、やや違和感もありました。でもシーズンが開幕し、クレインズの活躍が始まるとすぐに慣れました。
 2003年度からはアジアリーグが開幕。初年度は日本リーグと併存していましたが、04年度からは日本リーグがなくなり、実業団アイスホッケーの場は、アジアリーグに一本化されました。
 十条チームはついに日本リーグで優勝することができなかったのですが、クレインズに名称が代わり、アジアリーグに移行してからの活躍には目を見張るものがあります。
 とりわけ04年1月、日光(当時)を下してアジアリーグの初代王者に輝いた時は感無量でした。リンク造りから始まった戦後すぐの創部当時から、王子の苫小牧に「追いつけ追い越せ」と頑張った選手・監督時代、日本リーグでなかなか勝てずに「万年5位」といわれた悔しさなど、楽しかったこと、苦しかったことがさまざまに思い出されました。
 クレインズは今季を含め、アジアリーグで三回も優勝。今やアジアを代表する強豪チームです。これまであまり触れることはできませんでしたが、今のチームの充実があるのも市民や会社、アイスホッケーファンの温かい応援があればこそでした。皆さんの応援に心から感謝して、筆を置きたいと思います。

↑ ページの上部へ